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北川村のゆずを支える人たち 第1回

川島さん

ゆずの搾汁機の特許を持つ「北川村のエジソン」を訪ねて

村役場から車で約50分、山道を北上していくと斜面に一面のゆず畑が広がります。そこは川島さんが奥さまと一緒に暮らしている島という地域。川島さんが連れて行ってくれたのは飛行機が入りそうなくらい背の高い大きな倉庫でした。案内され中に入ると、油と鉄の混ざった機械のにおいが鼻いっぱいになります。金属裁断機や博物館かと思うほど年季の入った機械の数々。さて、川島さんはいったい何者なのか。重厚な機械に囲まれながらゆっくりお話しを聞きました。

川島さんは生まれも育ちも北川村の島地区。「私は小学生の頃から山で木を出したりするのを手伝って、中学卒業後も山仕事と畑と稲作で生計を立てていましたが、昭和40年代の減反政策をきっかけに、地元の農事組合で収入源となるものを皆で模索することになりました。それでこの辺にあって効率の良いものをと目を付けたのがゆずでした」

当時、地元の農事組合は20名ほど。いちばんの若手だった川島さんは、26歳のときにゆず栽培をはじめたそうです。「それまで農作物に使っていた田畑はほとんどゆずに植替えました。収穫が軌道に乗りだすと昼間は収穫、夜は日付が変わるまで手絞りの簡易な道具で搾汁をしていた。それがとても大変で、何とか効率良くしたいと試行錯誤結果がこれですよ」と見せてくれたのは"川島式円盤回転搾汁機"とラベルのついた搾汁機。川島さんの名前が付いており、じつは機械の特許を4つもお持ちなのです。でもまだ川島さんの凄さはそれだけではないのです。「ゆずを始めて8年後、当時誰もやったことのなかったハウス(施設園芸)での栽培をスタートさせました。同時に今でいう"カラーリング"の研究にもいち早く着手した。最初の頃はきっと周りの人たちからは、また変なことをやりはじめたぞ、というくらいにしか見られていなかったと思いますよ。でも私にとってみれば上手くいくかいかないか、金になるかならないかは重要ではなかったんです。とにかく誰もやったことのないことをやってみたかった。ハウスを組み立てるのも、カラーリングも、接木も、機械の開発も」

ずっと目を輝かせながらいろいろなことを楽しそうに話してくれました。ゆずの栽培技術、機械の開発、さらには造園や7000本の桜植樹エピソード、大きな倉庫も自分で建てたという。「私は自分のやりたいこと、興味があることをしているだけです。生きがいを見つけられたことが何よりの"得"だと思っています。満足のいく生き方をしたいからね。私はいくつも趣味という楽しみ事を自分で見つけて、ゆずを休みたくなった時は機械を造って、それがいき詰まったときは建物を建てたり山仕事をしたりと、気分によってやることを変えてきた。自分に正直でいたいし、物事に対する決断は自分がしていい。やらないことにはなにも始まりませんから、とにかく行動することを大切にしています」

北川村のエジソンは、特許を持つ搾汁機械の開発人でありながら、いくつもの顔を持つ、研究熱心で好奇心旺盛な、この1ページだけでは伝えきれない人物でした。まちがいなく北川村のゆず栽培をリードしてきた人物のお一人であり、語り継ぐべき村のキーパーソンの活動に今後も注目していきたいと思います!

川島さん(1) 川島さん(2) 川島さん(3)

「北川村ゆず新聞」より転載


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