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ゆず農家 File.02 和田さんちのゆず畑

和田さん

北川ゆず産業化の先駆者にして今なお現役のトップランナー

いまや北川村といえば「ゆず」ですが、それは過去の2つの「決断」によって生まれました。ひとつは幕末の中岡慎太郎によるゆず栽培の奨励。そして今回は、そのもうひとつの決断に大きく関わった、北川村のゆずのレジェンドを訪ねました。当時北川村の役場職員だった和田拓司さん。定年後の今でも北川ゆずの現役トップランナーです。

「昭和40年代の中頃、北川も米が主力産業でした。でも国では米の過剰生産により、減反政策が敷かれました。さてどうしようと。北川村は林業や電源開発で栄えて、一時は人口が6000人を超えました。でもその開発が終わったら、一気に人がいなくなってしまったんです。そこへきて減反政策。さて、村はどうするべきか。生産者らで作る農業委員会等を中心に議論を重ねました。そうする中で北部にある島地区の若者が集い、農事研究会を立ち上げたんです。毎晩のように地域に残るか出稼ぎするか話し合いを行い、自生していたゆずに着目して栽培を始め、地域に残ることを選択しました。村は米からゆずへの転作を後押しし、3 年かけて50haをゆず畑にしました。苗木を作る技術もなかったから、業者に頼んで苗を作ってもらって北川村全般に配布してもらいました。」

過去の苦労話をする和田さんの顔は、それでもとても輝いて見えました。

「事業はムードを作ることが大事なんです。全員をいっぺんに成功させられないから、まずは小さな成功事例を作る。特定のやる気のある人を探して、その人たちに成功をさせる。最初はゆずに懐疑的な人も多かったけど、そういうムードができると、村全体が活気づき、自然と動き出すんですね。そうしてだんだんゆずが盛り上がってきた。

そんな功労者の和田さんですが、それをひけらかすことも、誇張することも全くありません。

「役場には長年雇ってもらったけど、退職したいま村を見渡すと、『あぁ、あのときゆずをやっていてよかったな、転作は村を救った』としみじみ思います。ゆずをやってなかったらどうなっていたかな、と。でもね、結局、自分はゆずが好きだからここまでできたんですね。嫌いだったら絶対にできない。そういう気持ちは、ゆずにも伝わります。今やっている剪定作業なんかもそう。ものを言わない1本1本の木がどう考えているか、葉の色を見たり、幹を見て考える。そして木と話すようにやるんです。そういうものは、経験や感覚がものをいう。そこは機械じゃできないですからね」

AIをはじめとするデジタル化の波の中で、人ができる仕事のほとんどはAIが肩代わりできるようになると言われています。でも、和田さんの話を聞いていると、きっとこれは永遠に機械ではできない仕事なんだろうなと、そんなことを思いました。そしてこの思いを近くで見ている村の人たちや、新しくゆずを始める人たちが受け継いでいければ、この村のゆず産業の未来はきっと明るい光を見つけ出していけるはずだと感じます。

和田さん(1) 和田さん(2) 和田さん(3)

「北川村ゆず新聞」より転載


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